涙の中に虹が見える

大切な人の自死と悲しみを乗り越える、100の方法

わが子を自殺でなくしました。世界が崩壊し、宗教、哲学、スピリチュアル、悲しみを乗り越えるためのありとあらゆる方法を試した道のりを綴っていきます。悲しみは一生続きます。それでも生きられる。生きる意味はあると信じて。

2014年11月

超ヒモ理論的スピ

愚かな親だったなあと思う。
子供に期待をして愛してるつもりで追い詰めてしまった。

それでもね、きっと今回の人生はこれでよしなんだろう。

人生にはよいこともあれば辛いこともある。何の心配も不安も恐れもない人生なんてない。
たぶん将棋のように、予想外の一手がきたとしたら、ほほう、そう来ますか、と思って淡々と次の一手を打つでしょう。
そんな風に受け止めて進んでいけばいい。

もちろんいきなり息子が死んだら将棋の一手のようには思えないだろう。
でも人間の存在が、魂が本体で身体は幻想なんだとしたら、息子は消えてなくなったのではなく、形態を変えて待っているのだと言える。

いずれ私もこの体から抜け出る。
そもそも体に入っている、のでもない。
科学的に言うと体も机も地球も、一番小さい単位にまで分解すると、小さなヒモがプルプル振動しているものでできてるらしい。
つまりすごくリアルな立体映像みたいな?
海の泡はひとつの泡だけど海の一部でもある。

人間も実は自分と思っているものは全体の一部らしい。ぜーんぶプルプルしてるヒモなんだ。

泡が海に帰ったら泡だったときの記憶はなくなるのかな?
でも想像してみるとあんまり淋しくない。
ぜーんぶ家族でぜーんぶひとつの意識なら、喧嘩や憎み合いや優劣もなくて、楽チンじゃない?
最近階層のある天国よりこっちのほうがいい気がしてきた。ともかく息子は生きていた時よりリラックスしてるはずです。

ああ、今日も取り止めがないです(^^;;

よしもとばなな「鳥たち」自死遺族の物語













それぞれの母親を自殺によって相次いで失った「まこ」と「嵯峨」の物語。
二家族が共同生活をしていたアリゾナから日本に帰国して、まこは大学で演劇を、
嵯峨はパン作りを始める。

なんと自死遺族が主人公の小説です。
期待なかば、共感できなかったらイヤだなという思いなかばで、
手に取るのは勇気が要りましたが、
読み進めるうちに不思議な驚きに打たれました。

母の遺体を見てしまった「まこ」の繰り返し見る悪夢や
死というものがあまりにも近くなってしまった、
死と生の境目が曖昧になってしまった感覚は、まさに私が感じてきたものと同じでした。

しかし、語られるのは絶望や喪失感だけでありません。

特に、まこが演劇のチカラ、ネイティブアメリカンの詩の力で
同級生からの小さないじわるを中和してしまう場面がよかった。
死にとらわれていたまこが、自分の中の、あるいは根源的な世界の生きる力を
ふたたび発見したのだ、と思い、鳥肌が立ちました。

正直、息子のことがあった直後は、小説どころか、音楽もドラマも演劇も
もう何を見ても聞いてもただ泣くか、防御のし過ぎでまったく何も感じないか、
どちらかでしたが、この物語を読んで、
ああ、また私も以前のように本が「読めるようになった」のだ、
世界に対して拒否し、閉じていた自分の感覚がすこし戻ってきたのだ
と思えて嬉しかったです。
このものがたりを朗読か演劇にしたいなと思ったぐらい。

今、まさに悲しみの淵に浸り切っている方にはまだ早いかもしれませんが、
もし少しでも希望を見出したいと思って顔を上げ始めた方には
ぜひ読んでいただきたい作品です。

もしお読みになった方がいたら、ぜひ感想もお聞かせくださいね。

雨の日に

雨で朝から満員電車で、体がよじれながら、ふと私はなんのために何をしてるんだろうと思ってしまいます。

こんな時、気楽に休もっと。
と思える社会だったらいいのに。

あれ
思える社会って、おかしいかなあ。
社会のせいにしないで
いい加減な人と思われるリスクを取っても休めばいいだけかしら。

以前ノーと言える自分、みたいなのが流行りましたけど。

なんかね、社会にノーと言うとか、
政治が悪いとか言うんでなく
軽やかに社会から自由になりたいなあ。
バカボンのパパみたいに。

ワシがしたいから、そうするのだ。
これでいいのだ、みたいに。

本日は取り留めないです(^^;;

新しいほぼ日手帳

買いました!
新しい手帳で新しい自分へ、少しずつね。

2014-11-19-22-30-41

後悔スイッチ

今朝はなぜか後悔スイッチが入ってしまい、めそめそ泣きながら出勤。

泣きながらでも新宿の雑踏をふつーに歩くワザを身につけているわたくしです。

入ってしまったスイッチをはずすには、公園で深呼吸する(場を変えてみる)とか、未来でもなく過去でもなく今、やるべきことに集中する(マインドフルネス)が○。

そうしてどうにか1日の仕事を終えて、よく頑張った!と自分を励ましつつ帰る途中でまた人身事故。

もうひとつ、おすすめ。以前お世話になったウイリアムレーネンさんのブログで、通訳伊藤さまの

よい親の定義はない

一見悪い親でも反面教師として子どもがしっかりする場合もあるのだから
という記事があり、深く頷く内容だったので、ぜひご一読をおすすめします。
さあ、今日も生き延びたぞ。

YOUさんへ

まずね、本当に、書いてくださったことはだめなことではありません。
おそらく、このブログを訪れたみなさんが、そうそう、私も同じだったよ!
とうなずいているのが見えるようだからです。

魂、そんなものはない。
私の生きる意味はもうない

それはきっとすべての自死遺族が経験する絶望です。

すこし私の話をさせてください。
私は子どもの頃から占いとかあの世の話とかスピリチュアル好きで
およそ疑いもなく魂についても、あの世からの交信というものについても
インチキは多いにせよ、本物も別にあると無邪気に信じてきました。

そんな私でさえ(といったらちゃんちゃらおかしいのですが)やはり
子どもの死の知らせを聞いたとき、すべてが崩れました。

足元から私という存在を漠然と支えてきた考え、思想、信念みたいなもの

いつかがんばっていれば、きっと美しくてきよらかで、誰もが助け合う場所に
生きたままたどりつけるはずだという思い、あるいは期待は
粉々に砕け散りました。

>うちの子は弱かった。全て捨てて、自分の荷物を放り投げた。自分だけ楽になっただけ。

私の下の息子も兄の行動についてまったく同じように言っています。
にーには弱かったんだと。自殺する人はみんな弱いのだと。

>母親は私。
>愛して愛して育てた。愛情は全ての生きる力になると信じていた。
>こんな弱い、自分勝手で、こんな事を選択して実行したバカ息子だけど、私の大事な大事な宝。

ああ、私は、本当に正直言いますと、そのように言えるYOUさんがうらやましいとさえ思うのですよ。

なかなか言いにくいことですが、、、
私には三人子どもがおり、その中で死んだ息子は家族のなかでは
怒られ役というか、いじられ役というか、
たぶん斎藤学先生の家族学なにかだと専門の言い方があったと思いますが、
負の部分を引き受ける役目をしていたと思います。

ほんとうに告白しますが、
母親の私は、うすうすそれに気づいていた。
にもかかわらず、息子がその役を引き受けてくれていることに
甘えていた。
と、今は思います。
それを認めてしまうことは、今でものたうちまわるように火で焼かれるみたいに苦しいです。
できればそうじゃなかったと思いたい。記憶でも解釈でもどっちでもいいから消したい。

私は世間でいう難関大学も出て、心理学や哲学もかじって、シュタイナー教育や
モンテッソーリや、自分なりに模索してよい母であろうとし、
(すくなくとも車中に赤ん坊を置き去りにして死なせるような母親よりは)
愛も教養もあり、子どもにとってよい母親だというプライドがありました。

(ばかなことです。本当に、そんな自負は何の役にも立たなかった。)

息子が亡くなったあと、もしかして私は息子を愛しているから、ではなく
私のプライドが傷つけられたために悲しいのではないか、と
思う時もあるぐらいです。

どうでしょう。YOUさんと私と、
もしかしたらプライドだけの薄っぺらな子育てをしていたかもしれない
私のほうが悪いのでは?

それでも、です。

一度崩壊した世界からなんとか抜け出そうと、光を見出そうと、もがいて、もがいて、
そのありさまをここにさらけ出しているのは、
闇のなかにひとりでずっといるのは自分が辛いからです。
同じ闇の中にいるのが自分だけではないと気づきたいからです。
そして、本当のことをいえば、供養のためというより、自分の辛さから逃れたい、
自分の罪をつぐないたい。それが一番です。

>こんなことが起こって誰も悪くなかったなんて思えない。
>息子は悪い
>その悪い息子の母親も悪い奴

ただ、ひとつだけ。自殺をする人は弱い、悪い
というのは「今の」「現代の」価値観だ、ということだけは言えると思うのです。

ほんの100年前ぐらいまでたくさん殺せば英雄になれました。
また天皇がみまかられたあと、そのあとを追って自死することが尊敬され
誉めたたえられる行為だったこともあります。

善悪、何が良く、何が悪いかは、本当はないのです。フラットなのです。
時代によって、あるいは教育や洗脳、流行によって変わるのです。

美醜についてもそうです。
母親が子どもにすべき教育、というのもおそらく変わるでしょう。
パソコンがない時代は知識を量として蓄えていればそれだけで尊敬され存在価値があった。
今の子ども達は本能的にもう暗記なんか意味がないと知っています。
大人のほうが動きが鈍くてなかなか暗記教育を変えられないだけで。

ですから、私が誰も悪くありません、と言うとき
善悪は究極的にはないのだ、という意味で言っています。
うまく伝わるかどうか、わからないのですが、、、。

じゃあ息子をいじめた人がいたとしたら、そのいじめという行為は悪くないのか
と聞かれたら、この現代においては、もちろん悪いことであり、犯罪である、
そうきちんと法律で決めて厳重に処罰すべきだと思っています。

それでも私もこんな無味乾燥で競争ばかりで拝金主義の社会が悪いのだ、と思いっきり
呪う日もあるんですよ。
そこからさらに発展(?)して、生まれ代わりで魂を磨くなどという
とんでもないシステムを作った神様だか、上の人たちの遠大な計画がおかしいのだ
と文句たらたらの日もあります。(今でも毎日そう思います)

でもそんな私は、自分がデパートの玩具売り場で大の字になって泣きわめく
子どものようにも思えるのです。

私もどんなに普通の母親のままでいたかったか
胸が破れるほどにそう思う
でも普通の母親だったとき、そのありがたさ、「普通」が希有なもので
永遠に続くものでないということはまったくわかっていなかった
感謝を知らなかった

私もYOUさんと同じで悲しいです。
その悲しさを抑え込み、ないフリをすれば体に支障がでるでしょう。
だから今は自分に悲しむ事を許そうと思います。

先月ぐらい、はじめて家族の前で泣きました。
今まではたいていお風呂とか一人の場所で泣いていたのです。
家族は困った顔をしてはいましたが、黙ってただそばにいてくれました。
泣かないで、とも、わかるよ、とかも言わずに。
下の息子は背中や手を撫でてくれました。何か悪いものを落とそうとするみたいに。
人は私が思っているよりもきっと強いし、やさしいところもあるのです。

まったくとりとめがないですが、また書きます。
YOUさんも、そして他の方もまた書き込んでくださいね。

パワハラに悩む方へ

福島県警で3人の方が自殺されたとニュースで知りました。

辛いニュースです。
私は母親なのでつい子どもたちのことばかり考えがちですが、大人の方でもどうしても会わない相手というのはいると思います。

どうか死を選ぶ前に
その嫌な相手から全力で逃げてください。

家族や親しい人に相談しても
きっと理解してもらえない

このご時世に仕事を辞めるなど
とんでもないと反対される

そう感じておられるとしたら
まずは仮病でもいいから休暇を取って体を休めてください
人事課には相談されましたか?
同僚には?
相談できる相手がいないなら、
どうぞここに書き込んでください

あなたは悪くありません
どうかまずご自分を守ってください。
今は無理でもいつか家族も必ずわかってくれます。
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